日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#083

鎌倉弘教の始まり

随つて章安大師末代の学者を諫暁して云く「佛法を壊乱するは佛法の中の怨なり。慈無くして詐わり親しむはこれ彼の人の怨なり。よく糾治する者はすなわちこれ彼が親なり」等云云。余はこの釈を見て肝に染むるがゆえに身命を捨ててこれを糺明するなり

太田殿許御書

松葉ヶ谷に居を構えられた大聖人は、清澄を追われた心労を癒やす間も惜しむように、早速に小町大路の辻に立たれると、邪法を捨て法華経を信ずることの大切さを民衆に説き始められました。いわゆる鎌倉辻説法の始まりです。

当時鎌倉の市中では、このように自身の信ずる道を弘めようとする僧侶の姿が、そこかしこで見受けられました。あるいは念佛を唱えて市中を廻り、またあるいは己の行として托鉢に勤しむ修行僧などです。しかしその中でも大聖人のお姿は、群を抜いて人目を引いていたと思われます。

鎌倉弘教の始まり

まず当時の鎌倉では、念佛信仰が民衆の間で流行となっていました。以前にお話をしたように、大衆のみならず天台僧である道善御坊ですら念佛を信仰していた程です。また武家の間では禅の教えを幼少の教養として学び、更には武士として大切な一種の精神鍛錬として重用していました。そのような環境のなかで、真言、念佛、禅などのあらゆる教えを真っ向から否定し、ただひたすらに法華経のみを信ずることを声高に説くのです。しかもその傍らには、今まで誰も目にしたことのない「南無妙法蓮華経」のお題目が記された大きな御旗が、相模湾より寄せる風にたなびいているのです。これには道行く人々も、思わず足を留めずにはいられなかったことでしょう。

鎌倉弘教の始まり

そして大聖人が名越の地に拠点を定められた狙いもまた、見事に的中していました。辻とは四方の道が交わる場所を意味します。いわばそこを往来する様々な人々、様々な文化が交わる中心地なのです。小町大路の辻は、北に政治の中心となる幕府とその要人たちの住居、南には材木座のような商業地域が広がりを見せています。その中心に立ち教えを説くならば、武士や商人、あるいは船乗りや人足など、あらゆる人々にその声を届けることが出来るのです。

大聖人は鎌倉祖師の中では珍しく、東国出身の僧となります。そのため都の人々とは違った東人の気質を、誰よりも熟知されていたことでしょう。そのような人々に強烈なインパクトを与えながら、辻に立ち教えを説かれ続ける大聖人の周囲は、たちまち黒山の人だかりとなっていくのです。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成30年11月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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