宗会議員霊断院教務部長千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生
大聖人は止むことなき各地での天変地異、そしてついに鎌倉をも襲った前の大地震を目の当たりにし、その原因を今一度深く考察されました。震災にて大打撃を受けた鎌倉の街を隅々まで歩き、家を焼け出され今まさに道ばたで命を落とさんとする人々の、かすかな声に耳を傾け続けます。...
そろそろ話しを元に戻し、今一度日蓮大聖人のお姿を追いましょう。冒頭の御書『守護国家論』は、大聖人が鎌倉へ移られてより数年の後に記された物です。この頃の鎌倉、というよりも日本国といえば、各地で天変地異が相次ぎ、民の暮らしはおろか国家そのものが滅亡するのではないかと誰もが憂うほどの惨状でした。...
では池上兄弟について、少し詳しくお話しを致しましょう。...
さて今少し日蓮大聖人と、弟子檀越方の出会いについてお話をしましょう。...
前回の日昭上人に続いて、今月は日朗上人についてご紹介をいたします。...
名越の辻に立ち法華経の大切さを説かれ続ける大聖人のもとには、日増しに聴聞の者がその数を増していきました。...
鎌倉の辻に立たれ布教を始められた頃の大聖人は、『立正安国論』を始め色々な論書やお手紙の中で、ご自身の身分を「天台沙門」と名乗られています。...
松葉ヶ谷に居を構えられた大聖人は、清澄を追われた心労を癒やす間も惜しむように、早速に小町大路の辻に立たれると、邪法を捨て法華経を信ずることの大切さを民衆に説き始められました。いわゆる鎌倉辻説法の始まりです。...
これは江戸時代に水戸光圀公によって編纂された『新編鎌倉志』という地誌に見られる記述です。ご存じ「助さん、格さん」との世直し道中とまではいきませんが、光圀公は実際にご自身の見聞を元としてこの書を編纂されたと言われていますので、かなりの正確な記録といえます。...
石渡左衛門尉の庇護を受けながらしばし旅の疲れを癒やされた大聖人は、いよいよ目的の地に向かって出立されました。その詳しい足取りを追うことはもはや不可能ですので、布教の拠点と定める鎌倉についてここで少しお話をしましょう。...
不思議な猿に導かれ、ようやく目指す半島を目前にした一行ですが、逸る気持ちとは裏腹に船は一向に先へ進もうとはしません。...
九死に一生を得た一行ではありましたが、いまだ難が去ったわけではありません。荒波に揉まれた船は当初予定していた海路を大幅に外れ、いまやどこに向かっているのかもわからない状況です。現在のように位置を知る便利な機器もない当時のことです、もしも湾を外れ外海に出てしまうようなら、そのまま漂流の末に命も落としかねません。まずは目の前に見えている小島に上陸しようと、船頭は船を漕ぎ進めました。...
「いざ鎌倉へ《、大聖人を乗せた船は三浦半島を目指して海路を西へ進みます。半島の東岸には、浦賀水道に面して潮通しのよい走水港が古くから整備されていました。順調にいけば、そこを目指して上陸と相成る手はずであったと思われますが・・・。やはり正法弘通の行者には、常に魔が立ちはだかるのでしょうか。今まで穏やかであった海が、突然の嵐で荒れ狂い始めたのです。...
ご両親との今生の別れをも覚悟した大聖人は、いよいよ故郷房州の地を離れ、新たな布教の拠点を求めて一路鎌倉へと向かいます。以前の鎌倉留学の折りにも触れましたが、時代の趨勢は既に公家より武家政権へと移り変わり、それに伴い文化や政治の中心となる地も京より鎌倉へと移りつつありました。以前に蓮長として訪れた時よりわずか十数年の隔たりですが、鎌倉はさらなる大都市として発展をし続けていたのです。...
清澄を出た後の大聖人の足跡は、「鎌倉に居を移し…《というのが一般的な御一代記で知られるところですが、実はしばらくの間、少なくとも立教開宗同年の暮れまでは花房蓮華寺のある西条に滞在したと思われます。...
聴衆のあまりの剣幕に大聖人の身を案じた道善房は、いまだ激しい法論を発し続けようとする大聖人を制して退堂することを命じました。次いで東条景信を何とか静めようと宥め続けるのですが、それしきのことでは烈火のごとき怒りは収まりません。景信は「弥陀を愚弄する悪僧を直ちに追放せよ《と、道善房に激しく迫ります。もしその命に背くとなれば、師である道善房、はてはこの山までも危害を加えんとするばかりの勢いでした。...
それまで静まりかえっていた堂内は、一転して大聖人を罵倒する人々の声で騒然となりました。その怒号響き渡る中、憤怒の表情で刀の柄に手をかけ、今まさに斬りかからんとする者があります。それこそが、当地を治める地頭東条景信の姿でした。...
道善房の持佛堂では、都より戻った高学の僧の講話をぜひ拝聴しようと、既に堂を埋め尽くさんばかりの大衆が集まっていました。そこには山内の僧侶や近隣の領民のみならず、公家に連なる荘園領主や帯刀をする武者たち、そして当時最も権勢を誇っていた地頭東条景信の姿までも見られます。人々の間を縫い法座へ昇る大聖人は、大衆に対し南面して座すと、やがて穏やかな言葉で話し始めました。...
恩師道善御房や同門の僧など清澄の懐かしい人々に迎えられ、長き修学の終わりと無事の帰郷に安堵する蓮(れん)長(ちょう)ではありましたが、その一方で、いよいよ多年に亘る修学の成果を披露せねばならない時が近付いていました。師の勧めにより講話の場を用意された蓮長は、それに先立ち七日間の間一人草庵に籠もると、深い瞑想の日々を送りました。...
建長五(一二五三)年、比叡山を後にした蓮長(れんちょう)は故郷安房国を目指して帰郷の徒につきました。おそらく東海道を通ってまっすぐに向かったと思われますが、その年の春には清澄寺へ帰山したとされています。...
蓮長(れんちょう)が比叡山での修学を志してより、早十二年の月日が過ぎようとしていました。その歳月の長さは、開祖伝教大師の定めた『山家学生式』の修学規範を十分に満たすものでした。あるいは叡山に籠もり三塔の教えを請い、またあるいは各地を訪ね歩いては碩学の師や秘伝書を求め、まさに寸暇を惜しむ行学の日々を過ごしたのです。...
修学の締め括りとして京や奈良、果ては高野山に至るまで要所を尋ね歩いた蓮長(れんちょう)ですが、この書に見られるように、既にその奥義にまで達していた学識の高さ故に、その問いに答えることの出来る者は誰一人としていませんでした。それはまた、蓮長が最勝と定めた法華経の教義に対し、勝る教えが存在しないことを示していたのです。...
一度は関東方面へ戻った蓮長(れんちょう)ですが、前回お話ししました通り、再び京へと引き返します。六牙院日潮上人による伝記『本化別頭仏祖統紀』によれば、蓮長はこのころに後の大檀越となる大学三郎(比企能本)と出会ったとされています。...
伊勢神宮を拝し誓願を立てた蓮長(れんちょう)は、いよいよ清澄寺旭が森にて…といきたいところですが、建長五年の立教開宗までにはまだ数年の年月があるのです。...
蓮(れん)長(ちょう)が故郷を離れて比叡山に入山してより、早十二年の歳月が流れました。既に己が学ぶべきものを学び尽くし、なすべき使命をその胸にはっきりと定めた蓮長は、帰郷の時が近いことを悟りました。そして最後の締め括りとすべく、その足は伊勢大廟へと向かうのです。...
いよいよ諸山巡りも終わりに近付いた蓮長(れんちょう)は、河内にある磯長の叡福寺を訪れました。
叡福寺は聖徳太子が推古二十八(六二〇)年に、自らこの地を墓所と定められたとされる由緒ある寺院です。その翌年には太子のご生母である穴穂部間人皇后が崩御され、この地に埋葬されました。そして推古三十(六二二)年、太子のお妃である膳部菩岐々美郎女、そして翌日には後を追うように太子ご自身が相次いで薨去され、共にこの地に追葬されたといわれています。...
京都に滞在中の蓮長(れんちょう)は、五条付近にあった天王寺屋浄本の屋敷を宿所としたといわれています。天王寺屋浄本は、本屋であったという説が一般的ではありますが、一方で天王寺の役職に就いていたとする説があります。それ故に『本化別頭仏祖統記(ほんげべつずぶっそとうき)』などでは、大聖人が天王寺の秘笥を披くことが出来たのは、この天王寺屋浄本の仲介によるものだとされています。それにしても、学僧として学んでいる時期に既にこれだけの有力者たちが周囲に存在していたことには、いったいどういった伝手によるものなのか、改めてその不思議さに驚かされます。...
円爾(えんに)や蘭渓道隆(らんけい)どうりゅう)を訪ねた後、蓮長(れんちょう)は京の都に滞在したと言われています。
冒頭のご文章は、後に大聖人が佐渡流罪の際に幽閉された塚原三昧堂の様子を記したものです。面白いのは、ここに「落陽の蓮台野のや(よ)うに」という譬えが見られます。...
四天王寺を後にした蓮長(れんちょう)は、次いで円爾(えんに) や蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) を訪ねたと言われています。臨済禅を代表する両師の名は、良観と並ぶ批判対象として大聖人の御書によく登場します。冒頭の御書にあるように、「道隆」はむろん蘭渓道隆のこと、円爾は後に藤原道家より「聖一和尚」の号を授かりますので、「聖一」と記されるのが円爾のことです。...
前回は余談がだいぶ長くなって(と言うより、余談だけで終わって)しまいましたが、今月はようやく本題の四天王寺のお話です。
高野山よりの帰路、和泉へ足を伸ばした蓮長(れんちょう)は、八宗兼学の学問道場として名高い四天王寺を訪れます。八宗とは、三論、実成、法相、倶舎、華厳、律のいわゆる南都六宗の古流学派に、当時としては比較的新興の天台、真言を加えた八つの宗派を指します。...
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