日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#077

故郷との別れ

今はかまくら(鎌倉)の世さかんなるゆへに、東寺、天台、園城、七寺の真言師等と、並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人々、関東にをちくだりて、頭をかたぶけ、ひざをかがめ、やうやうに武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり、長吏となりて、王位を失ひし悪法をとりいだして、国土安穏といのれば、将軍家並びに所従の侍已下は、国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもいて有るほどに、法華経を失ふ大禍の僧どもを用ひらるれば、国定めてほろびなん

撰時抄
故郷との別れ

ご両親との今生の別れをも覚悟した大聖人は、いよいよ故郷房州の地を離れ、新たな布教の拠点を求めて一路鎌倉へと向かいます。以前の鎌倉留学の折りにも触れましたが、時代の趨勢は既に公家より武家政権へと移り変わり、それに伴い文化や政治の中心となる地も京より鎌倉へと移りつつありました。以前に蓮長として訪れた時よりわずか十数年の隔たりですが、鎌倉はさらなる大都市として発展をし続けていたのです。

以前より申し上げている通り、大聖人の一番の目的は「一切衆生の成佛」にありました。その大願を成就するためには、片海に引き籠もっているわけにはいきません。大衆の最も集う場所、政治の中心となるような場所で真の教えを弘めることが上可欠なのです。大聖人が両親や恩師のいる大切な故郷を離れたのは、景信からの難を逃れる意図も確かにありますが、むしろ積極的にお題目を弘める新天地へ赴かれたのでしょう。

東条を出発された大聖人の足跡については、いくつかの説があるようです。主には陸路か海路の二つの選択となるのですが、鎌倉までかかる日数や道中の危険度を考えますと、やはり海路が現実的なのではないかと思われます。

今でも千葉から神奈川へ出ようと思えば、東京湾沿いに車で走るよりも、アクアラインで横断してしまった方が圧倒的に時間の短縮になります。もっとも当時はこんな便利な橋などありませんので、同様のコース(実際にはもう少し南寄りになりますが)を船で渡ることとなります。また陸路を行こうと思えば、当然ながら開けた海岸線のみでなく幾度かは山中を越えなければなりません。まだ造船や操船の技術が未熟であった当時の海上交通を考えますと、それでも陸路の方が安全かと思われますが、何分にも大聖人は地頭より追われる身なのです。清澄より東条へ逃れるだけでも身の危険を感じて間道を抜けたくらいですので、山中で襲われる危険性は十分に考えなければなりません。

故郷との別れ

かくして東条より房総半島南部を西岸へ向かって最短で横断し、そこから船で三浦半島を目指すルートをとられたのではないかと推測されますが、そこで一つ疑問が浮かびます。そのルートで行くならば、船を操れる人間を供に従えるか、少なくとも船と共に操船できる者を雇ったことになるのです。かつて意気揚々と鎌倉遊学の徒についた時とは違い、今は体一つで清澄を追われた身の上です。さて一体どのようにしてそれだけの資金を工面したのか…。上思議でなりませんが、それはさておき、これから海を渡って鎌倉への旅路をご紹介して参りましょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成30年4月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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