されば日蓮は此経文を見候しかば、父母手をすり(擦)てせい(制)せしかども、師にて候し人かんだうせしかども、鎌倉殿の御勘気を二度までかほり、すでに頚となりしかども、ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申へんもあるやらん
王舎城事
清澄を出た後の大聖人の足跡は、「鎌倉に居を移し…《というのが一般的な御一代記で知られるところですが、実はしばらくの間、少なくとも立教開宗同年の暮れまでは花房蓮華寺のある西条に滞在したと思われます。
危うく難を逃れ花房に身を寄せた大聖人ではありますが、恐れをなしてそのまま身を潜められるようなお方ではありません。花房を拠点として近隣に出向いては、清澄での初転法輪と同様に法華経の正しさを説き、念佛信仰への批判を繰り返しました。その教えは人々の間に徐々に広まり、深く感銘を受ける者もあれば、反対に自身の信仰を批判され激怒する者もいました。また当時は中心となる清澄寺の他にも、子院となる天台寺院が点在していたとされていますので、それらの寺院を巡っては法論を繰り返していたことも推測されます。
やがてその噂は一帯に伝えられ、当然のことながら東条景信も聞き及ぶところとなりました。
「道善坊の嘆願を受けて命ばかりは助けてやったものを、懲りることなく念佛批判を続けるとは、もはや捨て置くわけにはいかぬ《と、領民をけしかけて大聖人を激しく非難させ、場に応じては襲撃もいとわぬよう仕向けました。それを察した浄顕房、義浄房ら兄弟子たちは、近く危険が及ぶのではなかろうかと、弟弟子の言動を心配しました。そして誰よりもその身を案じたのは、大聖人のご両親でした。
その教えの正しさを理解しながらも、このままではいずれ我が子は命を落とすであろうと憂い、これ以上の激しい振る舞いは控えてほしいと願ったのです。大聖人もまた、そんな両親のことを大変に苦慮されていました。自身の身はどれほど傷つこうとも構わぬ覚悟はありますが、恩ある父母が悪僧を産んだ大悪人と罵られては上憫でなりません。しかしここで正しき教えを捨ててしまっては、却って父母を無間の地獄へ落とす業となってしまいます。
大聖人は涙ながらに父母の願いを退け、法華経弘通の意思を貫き通すことを伝えました。その思いの強さを知ったご両親は、もうこれ以上我が子をいさめることをせず、自分たちを弟子にして欲しいと願ったのです。大聖人は自身の吊をそれぞれ与え、父に「妙日《、母に「妙蓮《の法号を授けました。これが今の善日麿に出来る精一杯の、そして最上の親孝行だったのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生