日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡に始めてこの正法を弘通し始めたり。隨ひて地頭敵となる
新尼御前御返事(にいあまごぜんごへんじ)
それまで静まりかえっていた堂内は、一転して大聖人を罵倒する人々の声で騒然となりました。その怒号響き渡る中、憤怒の表情で刀の柄に手をかけ、今まさに斬りかからんとする者があります。それこそが、当地を治める地頭東条景信の姿でした。
この後、因縁深き大聖人の法敵となる東条景信は、当時鎌倉幕府の有力な御家人として、また当地の地頭として絶大な権威を誇っていました。東条氏と幕府との繋がりは古く、治承四(一一八〇)年、石橋山の戦いにて破れた源頼朝が安房国へ落ち延びると、地侍であった麻呂五郎信俊、安西三郎景盛、そして東条七郎秋則らは、頼朝を手厚く庇護して忠義を尽くしました。やがて平氏が滅び天下の覇権が源氏へと移り変わると、頼朝は三氏の恩に対し平群、長狭、安房、朝夷の四郡を与え、後に北条や足利の時代までもその安堵は続いたといわれます。
こうした背景をもつ東条氏の権力は、長狭郡においては強大かつ盤石なものでした。その力を誇示する上で、そもそも朝廷によって荘園を安堵されている筈の領家と、しばしば領地を巡っての諍いを起こし、また皆の制止を押し切って清澄山中で鹿狩りを強行し、禁忌中の禁忌ともいえる山中での殺生を行うなどの傍若無人ぶりを見せました。
そのような東条氏ではありますが、領民を従順にさせる手段として、自身が信仰する念佛の教えを広め、それによって人心を掌握せんと目論んだ節もみられます。そのため『仏祖統記』によれば、当時信仰の中心地であった清澄を従わせようと、山内で念佛を信仰することを強いたともいわれています。以前にお話したように、中古天台と揶揄される当時の天台僧侶たちの堕落ぶりも勿論ですが、こと清澄山内での念佛信仰の横行には、こうした外部からの力が働いていたことも十分考えられるのです。
いずれにせよ、一心に信じてきた念佛を真っ向から否定され、西方浄土へ往生する望みを無間の業と罵られたとあっては、たとえ相手が出家の身であっても容赦することは出来ません。景信の怒りは、袈裟衣を纏った聖職の首を刎ねてでも、佛敵を成敗せんとする程のものだったのです。
イラスト 小川けんいち
宗会議員
霊断院教務部長
千葉県顕本寺住職
バイクをこよなく愛するイケメン先生