日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
日蓮大聖人が歩まれた道 日蓮大聖人が歩まれた道

#060

諸国への遊学
その十三

上宮太子は、守屋の逆を誅して寺塔(四天王寺)の構えをなす。しかしより来、上一人より下万民に至るまで、仏像を崇め経巻を専にす。しかればすなわち、叡山、南都、園城、東寺、四海、一州、五畿、七道、佛経星のごとく羅り、堂宇雲のごとく布けり

立正安国論
日蓮大聖人-泉州

蓮長(れんちょう)はまず泉州、今で言うところの大阪方面へ足を伸ばしたとされています。和泉では懇意であった江川太郎左衛門吉久邸に数日の間滞在し、そこで法要を行ったとも、また教えを説いて教化したとも言われています。

この江川太郎左衛門は歴史上なかなかの有名人(当時の当主本人ではありませんが)で、後に豆州韮山で名代官として「太郎左衛門」の名と共に代々その職を世襲していきます。殊に江戸時代の英龍、英敏親子は積極的に西洋の学問を学び、世界文化遺産にも登録されている韮山反射炉を建造したことでその名が知られています。また意外なことですが、日本で初めてパンを焼いたとされるのも、実は太郎左衛門英龍なのです。

江川太郎左衛門

さて時代を戻しますが、実は日蓮大聖人と江川太郎左衛門との関係は、今一つ釈然としないものがあります。この江川太郎左衛門なる人物、確かに後に伊豆の国にて大聖人の弟子として日久となったとされ、現在の静岡県にはその所縁のお寺である由緒寺院本立寺が建立されていますので、その存在は明らかだと思います。しかし大聖人との出会いは、この時期であったとも、あるいは伊豆ご流罪の折であったとも言われています。また出家し日久となったのも吉久であったり英久であったり、こちらもまた諸説様々なのです。

江川太郎左衛門の一門は、その源流が大和源氏を名のるほどの名門ですので、当然ながら代々の家系は史実としてある程度明らかになっています。その家歴によりますと、当家が伊豆の国へ移住したのは平安末期とされ、頼朝の挙兵にも参加したと言われています。そうなりますと、実は蓮長が大阪にいた頃には、既に太郎左衛門は当地には居住していないこととなってしまうのです。それならば、移住先である伊豆で出会ったとする方が、やはり信憑性は高くなりますでしょうか。

もっと言ってしまえば、当家の氏は当初「宇野」姓であり、「江川」姓を名のるのは何と室町時代だとされるのです。それでは鎌倉中期に蓮長が出会った江川太郎左衛門はいったい誰だったのでしょうか。ここまで追求すると身も蓋もなくなってしまいますので、もうこの辺にしておきましょう。

いずれにせよ八百年近くも昔の人物ですし、何と言っても代々の当主は江川太郎左衛門までが同名ですので、色々な人物が混同してしまうのも致し方ないことかもしれませんね。

と言ったところで、本当は冒頭の御書に上げた「四天王寺」についてふれたかったのですが、ついつい江川家の謎を追っているうちに字数も一杯になってしまいましたので、それはまた次回に致しましょう。

イラスト 小川けんいち

※この記事は、教誌よろこび平成28年9月号に掲載された記事です。
小泉輝泰

小泉輝泰

宗会議員
霊断院教務部長

千葉県顕本寺住職

バイクをこよなく愛するイケメン先生

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