日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
法華経のお話 法華経のお話

#060
無量義経の段その十八

大轉輪王小轉輪王。金輪銀輪諸轉輪王。(無量義経徳行品第一)

1.「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える」(マルティン・ルター)

ノストラダムスの大予言以来、久しぶりの大ネタとなった二〇一二年十二月二十二・二十三日のマヤ歴大予言も、(当然ながら)なにごともなく過ぎ去ってしまいました・・・。

されど安心するのも束の間、今後のスケジュールとしては、二〇一五年マヤ歴再解釈の滅亡予言、二〇一七年ダニエル書(旧約聖書の一部)の終末預言、二〇二〇年マヤ・インド歴合体の終末予言、二〇三〇年聖徳太子「未来記」(偽書ですけど)の滅亡予言、二〇三九年アドルフヒトラーの旧人類消滅予言、二〇六〇年アイザック・ニュートンの滅亡予言等々と、まさに息つく暇もない滅亡のラッシュアワー状態・・・。

2.「時間が過ぎ去っていくのではない。われわれが過ぎ去っていくのだ」

四劫(佛教)

「なんで二十一世紀は滅亡のテンコ盛りなんだ!」と、思わず叫んでしまうところでしょうが、実はこれ、何も今世紀だけの話ではありません。もともと人類の歴史に、滅亡予言は付きものなのです。

“浜の真砂は尽きるとも”世に滅亡予言の種は尽きないもので、既に期限切れになった滅亡予言の数などは、とてもとても数えられるもんじゃありません。

そんな無数の滅亡予言の元ネタとも言うべき、最大最強の予言と言えるのが、皆さん誰もが御存知の、新約聖書の四つの福音書なのです。

そう、キリスト教とはそもそも、ナザレイエスの言葉「悔い改めよ、天の国は近づいた」を信じ、終末の時に備えるための宗教。いわば二千年を超えて滅亡の日を待っているわけです。

3.「チャンスは扉を二度叩かない」(ニコラス・シャンフォール)

キリスト教(と同じくユダヤ教を母胎とする)イスラム教においては、世界は唯一神によって創造され、やがて唯一神によって滅ぼされるもの。スタートして只ひたすらにゴールにむかっていく、いわば一回限りのもの。ゆえに人間の人生もただ一回だけの勝負。

キリスト教(またはイスラム教)から観て、正しいといえる人生を送れたら、滅亡後の栄光が約束されますが、しくじったら最後、永遠の地獄行きが確定します。

まさに一度のチャンスで勝ち組負け組を決めるシビアな教え。当然、キリスト教を知らない人、キリスト教以前の時代の人は、もうそれだけでアウトなわけです。(ゆえに紀元前に存在した立派な人、徳のある人たちはどうなるのか、神父さんたちの間でも喧々諤々だったそうです)

4.「ドアが一つ閉まると、もう一つが開く」(ヘレン・ケラー)

一発勝負のキリスト教

一発勝負のキリスト・イスラム教に対し、輪廻転生を説く佛教は、何度でもチャンスが貰える。再チャレンジ、負け組救済の教えと言えるでしょう。

命が生死を繰り返すように、宇宙もまた、繰り返していくと考えます。同じ下降史観であっても、キリスト教が宇宙は創造から滅亡へと、ただ一直線なのに対し、佛教は誕生・発展・衰退・滅亡を一サイクル(四劫)とし、これを無限に繰り返していくと説くのです。

しかもその一サイクルごとに、三千人の佛さまが順次に降臨されるそうです。

佛さまが降臨されている時代は佛の世。その佛さまがご入滅(お亡くなりになること)された次の日から、千年間は佛法が正しく伝わる時代(正法)、次に教えが形骸化する時代が千年(像法)、そして教えが廃れ、世が乱れた時代が万年(末法)と、段々に下降していき、その果てにまた、次なる佛さまが登場されて、リセットされるというわけです。

そして現在、平成二十五年は西暦(ナザレのイエス誕生から)では二〇一五年ですが、佛紀(お釈迦さまが入滅されてから)では既に二九六二年!そう、まさに末法のド真ん中なわけです・・・。

イラスト 小川けんいち

塩入幹丈

元霊断院主任

福岡県妙立寺前住職

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