「一時佛住。王舎城(おうしゃじょう)。耆闍崛山(ぎしゃくっせん)中」
佛様が居ます世ならば必ず説法の場所とされ、無佛の時代ならば聖者が修行の場とし、さらに聖者もいない世ならば鬼神や精霊が棲み家とする、聖も魔も訪れる霊地。
まさに善も悪も超え全てを救う法華経にとって、最もふさわしき舞台。それこそが王舎城(マガダ国首都)の丑寅(うしとら)にそびえし山、耆闍崛山すなわち霊鷲山(りょうじゅせん)だったのです・・・。
では後の六十万世帯は佛教とご縁があったのかというと、さにあらず。
その半分の三十万世帯の人々は、ただお釈迦様のことを聞いただけにとどまり、あと半分の三十万世帯だけが、やっとお釈迦様を実際に見ることができたそうです。
しかも一概に見るといっても、そのパターンは千差万別のはず。
有り難い方だとおがみ拝する人もいれば、興味もなくチラ見しただけの人や、新興宗教だ、胡散臭さいなーと見た人もいることでしょう(聞くだけの場合も同様でしょう)。
結局、王舎城九十万世帯中、お釈迦様を佛様だと認識できた人の数は、はなはだ少数だったことになるのです。
『娑婆の栄花は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。人身は受け難く、佛教には遭い難し』とは「平家物語」の有名な一節ですが、これはお釈迦様と同時代、同じ国の同じ街に住んでいた人々にも、当てはまることだったのです。
思えば、そんな会い難き佛教の中でもさらにさらに会い難き日蓮佛教に出会えた私たちって、宝くじの一等にあたることよりも何万何千倍も難しいチャンスに恵まれているんですね。
是が非でも、このチャンスを生かしたいものですね・・・。
さて、こうした因縁由緒ゆえに、お釈迦様はここ、王舎城は霊鷲山(耆闍崛山)の山中で説法されたわけですが、実はこの山の「中」にお入りになるということそれ自体にも、ある特別な意味があるのです。
元霊断院主任
福岡県妙立寺前住職