島根県出雲市
妙本寺福徳聖徒団修徒
小山亮廣
私は母から「いつも仏さまが守ってくれるよ」と言って倶生神月守を持たされていました。なかなか仏さまを実感できませんでしたが、私が心の病になって初めて体験できました。それは、五十一歳の血気盛んなころ、ある企業から新会社設立に協力して欲しいと誘われ、始めた会社での出来事でした。
そこは「人生ピンピンコロリ」と日々健康で快適な暮らしを提供する会社でした。両親が病弱だったので「健康で快適な暮らしを提供したい」と意気込んで入社しました。当初、部下たちは私の思いに共感し、一緒に働くことを喜んでくれました。
ところがその意気込みは、鞭で叩くように相手に伝わってしまい、部下との距離は扇が開くように少しずつ離れて行きました。私は両親が結婚して十年目にできた子供で、感情や行動が先走る性格から気づけませんでした。
「部長の指示は不適切です。管理者としての能力を疑います」とメールが来たり、仕事の指示を出しても「今は忙しいから無理です」と反発されたり、「それって私がやるべき仕事なんですか」「部長がやればいいじゃないですか」と仕事を断れられる有様でした。それも一人の部下だけでなく部署全体から同じような扱いを受けました。
社長にこのことを相談すれば、自分の無能さをさらけ出すと思い沈黙していました。思うように行かない自分が情けなく、お酒で誤魔化す日々となり、お酒の量がどんどん増えていきました。
そんなある日、社長から「しばらく、一人で活動して貰います」と、いわゆる「窓際」への異動を命じられました。
その頃に相談したお上人から、「いい会社だけど、何か霧がかかっているなぁ」と言われました。霧がかかるのは私の心です。心にかかる霧は濃霧となり、会社も休みがちになりました。地獄の底にいるようでした。
その頃、娘は日記に「家に帰ったら、父がいないことを願う。父が嫌いなわけではなく父が仕事に行っていることを願っている。その願いはかなわない事が増えた」と書いていました。
私は「自分が吸う空気は他人のもの。自分が吸ってもいいのかなぁ。ダメだなぁ。自殺した人もこんな気持ちだったのかなぁ」と、思った瞬間!「心の奥底から、今すぐ病院へ行きなさい!」と、仏様の声が聞こえました。自らの足で、直ぐ会社の健康相談室へ駆け込むと「私が居る病院へ入院しましょう」と、担当の先生がすぐに手配してくれました。
それから三ヶ月の入院。治療中の少しの暇も惜しんで、倶生神月守をギュッと握りしめ「仏さま、どうか助けてください」と心に念じ、お題目を唱え法華三部経を繰り返し繰り返し読みました。すると、日常の風景が違って見えてきました。治療中に歩く足元の雑草にも山々の木々にも漂う空気にもみんな命が宿っていること。空気を吸って生かされている自分がいること。感情や行動が先走る自分に気づき反省した時、南無妙法蓮華経の世界に生かされている自分を感じ、感謝できるようになりました。
入院を勧めた先生から「小山さん、あの会社へ復職するのは辞めましょう。別な人生がありますよ」と言われました。それは「生きていい。生きましょう」という、仏さまの声だと受け取りました。
日々暮らす中、知らず知らずのうちに心に霧がかかることがあります。それがいつの間にか濃霧になります。自分ではどうしようもない不安が襲い掛かり苦しくて、生きているのが辛くなることがあるかも知れません。そんな時には、お題目を唱え、仏さま、お祖師さまにすがるしかありません。私は病室でお題目を唱え、仏さまに出会い、霧に包まれた心が晴れました。いつも、どこにも、仏さまはいらっしゃいました。
皆さまも、南無妙法蓮華経の世界に生きるよろこびを、倶生神月守をしっかりと握りしめ、お題目を唱え、心が晴れるという状態を味わっていただきたいと思います。
イラスト 小川けんいち