日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
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#031
成仏の道を目指す

東京都西部霊断師会会長
東京都新宿区 清隆寺聖徒団団長
林 重仁

今回は、施餓鬼供養についてお話ししましょう。

さて、施餓鬼とは、餓鬼界に堕ちて苦しんでいる者に施しをするという意味です。「救抜焔口餓鬼陀羅尼経」という難しい名前のお経にその由来があります。

お釈迦さまの十大弟子のひとりである阿難尊者は、ある日、口から炎を吐く焔口餓鬼(えんくうがき)に「おまえは三日後に死んで、我々と同じ餓鬼界に堕ちるのだ!」と言われました。恐れおののいた阿難尊者が、どうすればその運命から逃れられるかと尋ねると、焔口餓鬼は「明日中に無数の餓鬼の飢えと渇きを満たし、仏法僧の三宝を供養すれば、無数の餓鬼も救われる。その功徳でお前の寿命ものびるだろう」と答え、姿を消しました。 しかし、無数の餓鬼に一晩で飲食を用意するなんて到底できません。

困り果てた阿難尊者は、お釈迦さまに教えを請い、施餓鬼の法を教わります。それによって無数の餓鬼を救い、自身も餓鬼界に堕ちずにすみ、長寿を得ることができました。

ここに出てくる「餓鬼」とは、仏教に説かれる十界の、地獄界・餓鬼界・畜生界という「三悪趣」のうちの一つの世界に住む、飢えと渇きに苦しむ者のことです。

食べ物や飲み物を口に入れようとしてもすべて燃えてしまうので、お腹がいっぱいになることがないのです。では、この世界では何故すべて燃えてしまうのでしょうか。

日蓮大聖人の御遺文に

この経の文字は皆ことごとく生身妙覚の御仏なり。しかれども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る。人は水と見る。天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随いて別別なり

曽谷入道殿御返事

とあります。

つまり、感謝の思いを持っている状態で飲めば、ただの水も最上の飲み物になり、自分の欲に振り回されている状態で飲めば、いくら飲んでも満たされず、水が火に見えてしまう、ということなのです。

もちろん生きている限り、全ての欲を捨て去るなんてことはできません。しかし、必要以上に物を求めることは苦を生じる原因なのです。

成仏の道を目指す

これを求不得苦(欲しい欲しいと思っても、それが手に入らないという苦しみ)といって、八苦のひとつに数えられています。

阿難尊者が出会った焔口餓鬼とは、自分の心の中にある「欲」ではないでしょうか。その「欲」に支配されて心が餓鬼界に堕ちてしまわないように、お釈迦さまは阿難尊者に施餓鬼の法を授けられたのです。阿難尊者が救われたということは、簡単に言えば、ちょっと立ち止まって自分本位の「欲」に振り回されている状態に気づいた、ということだったのではないでしょうか。

一般的な施餓鬼供養は、本堂中央に精霊棚を設け、餓鬼飯・水を供えます。餓鬼飯には小幡を数本立て、経文の一句を書き、中央の小幡には「南無妙法蓮華経有縁無縁法界万霊」と書きます。

また、四隅に「施餓鬼幡」という青・黄・赤・白・黒の五色の大幡を立てます。四枚の施餓鬼幡にはそれぞれ如以甘露灑・除熱得清涼・如従飢国来・忽遇大王膳(甘露をそそがれることにより熱が除かれ清涼を得るがごとく・飢餓の国から来た人がたちまち最高のご馳走の前に座るがごとく)と書かれています。これは、お釈迦さまの弟子たちが、お釈迦さまから「あなたは未来世において成仏する」という予言を受けた、その悦びを表現した言葉です。日蓮大聖人は四条金吾殿御書という御遺文の中で、「施餓鬼供養の際は、導師はこの言葉と南無妙法蓮華経とを唱えながら供養しなさい」と説いていらっしゃいます。

成仏の道を目指す

つまり施餓鬼供養とは、法華経の信心・お題目をもって無数の餓鬼を救ってあげたいと思うことで自身が餓鬼界に堕ちることを防ぎ、その功徳によって自分に縁のある方々や、ひいては全ての霊位を供養するという、私たちにとってとても大切な年中行事なのです。欲にかられて行動するより、「知足(足るを知る)」という、いま有るものの有難さに目覚めることが重要です。自分の境遇に感謝の気持ちを持って日々を暮らす、ということが「足るを知る」という言葉の体現ではないでしょうか。折にふれて心がけたいものです。

七月、八月は、お施餓鬼の法要をされる聖徒団が多いと思います。是非、お施餓鬼法要に参加し、塔婆供養をして、ご先祖様に供養の誠を捧げましょう。

そして自分自身の心も餓鬼の心にならない様に生神月守倶を着帯し、お題目を唱えながら成仏の道を目指しましょう。

※この記事は、教誌よろこび平成29年6月号に掲載された記事です。

イラスト 小川けんいち

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