宮崎県本東寺聖徒団 副団長
吉田 静正
「おかげさま」という言葉は、日常茶飯事に耳にし、誰もが何げなく使っておりますが、日本に仏教がもたらされて以後、この言葉ほど、仏教思想が定着し、完全に消化され、そして純日本的に完成したものはないと思います。
「おかげさま」は自分一人では生きられない。必ず自分以外の他によって、生かされていることに感謝し、更に他の存在そのものが、自分の価値観を向上し、人間性を高めていることに気づき、「おかげ」であることに、敬称の「さま」も付けて尊ぶのであります。
昔の道話に、「栗の食べ方」というのがある。
『ここに十個の栗がある。この栗をおいしく食べるには、最初に一番おいしそうな栗を食べる。次に九個のうちで一番おいしそうな栗を食べる。次に八個のうち、七個のうち、六個のうちと順次、残った中で一番おいしそうな栗を食べて、最後に残りの一番おいしい栗を食べ終わる。こうすると、全部の栗をことごとくおいしく食べたことになるわけである。これとは逆に、最初に十個のうちで一番まずそうな栗を食べる。次に九個のうちで一番まずそうな栗を食べる。かくて順次にまずい栗を食べて、最後のまずい栗を食べ終わったとき、全部の栗をまずく食べたことになるのである。』
このように一つの栗の食べ方でも、おいしく食べる方法と、まずく食べる方法とがあるが、われわれの日常生活においても、これに類するものがある。
このかけがいのない一生を明るく愉快に送ることも、暗く不愉快な一生にしてしまうのも、われわれの心の持ち方いかんによって決まるものである。
いつも有り難いと「おかげさま」感謝の心で生活できるひとは、十個の栗を全部おいしく食べたのと同じように、倶生神月守に守られ人生をいつも楽しく明るく送ることの出来るひとである。
こういう人生の処し方を便宜主義とか気休め主義とかいう説もあるが、決してそうではない。
日蓮大聖人ご妙判『四条金吾殿御返事』には、
強盛に信力をいだし給うべし。過ぎし存命不思議と思わせたまえ
とお教えあるが、死を背負った《生》を今日も過ごせたことは、『不思議にも有り難いきわみ』なのである。
仮に介護を受ける老人がいる。その介護に携わる人は、この老人が自分の前にいる「おかげ」で、介護という尊い行為ができるわけで、「介護させていただく」という謙虚なこころが自然と芽生えます。
この「させていたただく」行為の積み重ねが、菩薩道、仏への帰依、弘教に繋がる事になります。
「おかげさま」こそ、仏教の主張「慈悲」なのであります。
振り返って、今日を生きている幸せを知り、ご本佛、倶生神月守に感謝して「おかげさま」をもって報いることが信行の増進に繋がります。
倶生神月守を持ち、日々「おかげさま」の精神で正法の信仰に励んでまいりましょう。
イラスト 小川けんいち