日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
よろこび法話 よろこび法話

#015
生きる意味とは
~この娑婆世界(しゃばせかい)に生れて~

神島根県浜田市
龍泉寺聖徒団団長
笹部 一眞

私は今年で五十八歳、島根県浜田市で龍泉寺というお寺の住職をつとめています。子供の頃はそんな自分の将来は想像していませんでした。縁あって入寺したお寺には、寺庭婦人とその母親、そして今は都会に出た大学三年生と大学一年生の息子、地元の高校に通う二年生の娘がいます。お寺の住職として、また一家の主としての諸々の責任重大です。生きるということは一生懸命なものです。

これまでの自分の人生を振り返ると、起こったことのすべてが今に繋がっているように思えます。ひょっとしたら前世からかもしれません。

生きる意味とは

私は福岡県のお寺に、兄弟三人の末っ子としてこの世に生を授かりました。お祖師様のお仏飯を頂き、お檀家さんに可愛がられて育ちましたが、自由気ままに生きられないお坊さんにはなりたくありませんでした。長男である兄が、大学進学にあたりお寺を継ぐこととなり、将来の自由が与えられたのですが、最初に志望大学の受験に失敗します。何とか合格した大学に通うため故郷を離れて上京し、父親から仕送りをしてもらいながら四年間の学生生活を過ごし、東京で会社に就職をしました。

やっと経済的にも親から自立し、社会人として歩み始めるのですが、会社の一カ月の研修の後に決定されたのは入社の際に望んだ部門ではなく、不本意な配属先でした。そして営業での得意先回り、休日出勤や夜遅くまでの残業、また得意先の接待や苦情処理など。それでも二十代の青年時代をサラリーマンとして東京で過ごしたことは今では懐かしい思い出です。

三十歳になった時、六年半務めた会社を辞めて向かった先は、お釈迦様の国インドでした。ガイドブック片手にリュックを担ぎ、三ヶ月間、仏蹟をはじめ北から南までインドの各地を歩きました。日本に帰ってきて、師僧となる父の下で得度し、大本山池上本門寺で随身生として宗門の大学に通いながら修行をしました。二年目の夏、父が病気で急逝したことによりやむを得ず故郷のお寺に戻り、住職となった兄を手伝うことになりました。

生きる意味とは

そして、三年目の三十五歳の時に浜田の龍泉寺への話があり、平成五年十月にお会式の法要で入寺式を行って頂き住職となったのです。大きな責任を感じ、何もわからないままに始まった僧侶としての生活。お寺の整備や日々の法務に加え、日蓮宗青年会の活動、九識霊断法の相伝と本部への出仕、布教院での研鑚、島根県宗務所の仕事など、かれこれ二十三年目になります。

「そんなあなたが僧侶となり、お寺の住職として行なったことを一つだけ述べなさい」と言われたら、私は何を語るのでしょう。 それは、一人の未信徒の方のいろいろな悩みの相談にのり、毎月の盛運祈願会をはじめ、お寺の行事に徐々に参加して頂くようになり、身延大会の参加をはじめ、大聖人の霊蹟(れいせき)を訪ね、日蓮宗に改宗してお寺を支える檀家になって頂き、一緒にお題目を唱えて仏道を歩んでいることです。

私達の暮すこの娑婆世界(しゃばせかい)が意味する忍土(にんど)とは、自分の思い通りにならない様々な苦しみに耐え忍ぶ世界ということです。日蓮大聖人は四條金吾さんに与えた手紙の中で、「苦をば苦と悟り、楽をば楽とひらき、苦楽共に思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱えさせ給え、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛(ごうじょう)の信力を致し給え」とお示し下さっています。

たとえ数えきれない失敗を重ね、自分自身が無力であっても、素直にお題目の救いを信じ、身近な誰かの支えとなって、共に未来永遠の精進を誓うことこそ、今を生きる意味であり本当のよろこびなのです。

イラスト 小川けんいち

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