日蓮聖人降誕800年
日蓮宗全国霊断師会連合会
よろこび法話 よろこび法話

#004
お題目に生きる

日蓮宗霊断師会 総務部 庶務財務課長
東京都新島 長栄寺聖徒団
光枝 妙珠

お題目に生きる

物があふれ、時代の変遷と共に何でも簡単に手に入れることができる現代となりました。

昭和初期にお題目に生きた一人の女性がいます。北九州小倉の小さな家で3人の男の子を育てておりました。ある日、いつも一緒にいた一番下の子が夜中に突然亡くなったのです。原因はわかりません。現代であれば救命救急の処置をし、命を落とさずに済んだのかもしれません。当時は成す術もなく、突然亡くなってしまいまいた。それからというもの、両親はとても悲しみ、とてもつらい日々を過ごしました。

そんなある日、お母さんが寝ていると不思議なことに「子供をお寺に預けなさい。子供をお坊さんにすればこの因縁は消えるであろう」という声を夢の中で聞かされました。両親は悩みに悩みましたが、この子の供養になるのならと思い、また当時中学生だった二人の兄たちも、弟の死を悼み弟が浮かばれるのであればと言ってくれ、兄二人をお寺の小僧として、身が引き裂かれる思いで送り出したのです。

両親は、一度に三人の子供達と離れての生活となり、どんなにつらい思いでいたことでしょう。特に母は亡き子供のご供養と、残された二人の子供が僧侶として立派に道を歩めるようにと、祈りの毎日が始まりました。山の麓にあるお滝にての水行、そしてお百度詣り。小さな体で必死に祈り続ける毎日でした。難しいお経を唱えることができないので、ひたすら『南無妙法蓮華経』のお題目を一日に一万遍。くじけそうな時には、お寺で修行に励んでいる子ども達の顔を思い浮かべながら、共にお題目に生きたのでした。来る日も来る日も、お題目に明け暮れた毎日でした。決して裕福な家ではなかったのですが、お寺の土地が人手に渡りそうになった時には、夫の退職金を全額寄進したり、お寺を大事に大事に思い、お寺と共に生きる日々が続きました。

やがて息子二人はそれぞれ独立し、僧侶としての道を歩み始め、兄は養子として迎えられ、弟も縁あって小さな島で住職として布教活動が始まったのでした。母親の熱心な祈りは生涯続けられ、その功徳によって、艱難辛苦(かんなんしんく)の人生を心豊かに過ごすことができたのです。どんなに苦労があっても、お釈迦様の教えをもとに、祖師を信じお題目におすがりする。ただひたむきに信じお唱えすることによって、知らず知らずのうちに、その人に一番合った形で願いは叶って行くのです。

日蓮大聖人が、千日尼御前という方からのお便りのお返事に次のような事を書かれています。

『日蓮は受けがたくして人身を受け会い難くして仏法に逢い奉る。一切の仏法の中に法華経に逢い参らせて候。その恩徳を思えば父母の恩、国主の恩、一切衆生の恩也。父母の恩の中に慈父をば天に譬え非母をば大地に譬えたり。いずれも分け難し。その中非母の大恩ことに報じ難し。』

お題目に生きる

このお言葉をやさしく噛み砕いてみると、「日蓮は受けがたい人間の身と生まれ、ありがたい仏の教えに遭うことができた。しかもあらゆる教えの中で最も優れている法華経にお遭いできた。その恩徳がいかに重いかを思うならば、人間に生まれて法華経に遭わせてくれた父母の恩、国の恩、すべての人々の恩に報いていかなければならない。このうち父母の恩の中でも父を天に譬え母を大地に譬えている。どちらの恩が重いのか分け隔てすることはできない。とはいえあえて言えばその中でも母より受けた大きな恩は、とても報いることができないほど重いのである。自分の身を挺してこの世に産んでくれて、今の自分があるということがいかに尊いことであるか。」ということです。

子どもの死を受け、いかに生きるべきかを祖師に問い、自然にお題目にすがり真摯にひたすら祈り続けた功徳は、後々に現象として顕れているのです。時代が移り変わっても、親が子を想う気持ちはいつの世でも変わらないものなのです。

お祖師様の教えや、お題目に出会っていれば起きなかったであろう、現代の幼児虐待や殺伐とした事件を耳にするたびに心が痛みます。世の中の人々が安穏な気持ちで暮らせるように、祈りがあるのです。一人でも多くの方が、日蓮大聖人の教えに出会い、お題目に身をお任せする生き方ができますように、日々祈るばかりです。

もうすぐお彼岸です。ご先祖様を敬い、父母や、周りの人を敬う気持ちを持ち続け、お題目の輪が広がりますよう、共に精進致しましょう。

<教誌よろこび2015年3月号より>

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